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2011年6月7日火曜日

書くということ…Rupo JW-90シリーズとわたし

子どもの頃には作文ってやつが大嫌いだった。なんでもいいから思ったことを書きなさいとか大人に言われて、そう言われると自分は何にも考えていない様な気がして、もう一文字たりとも書けなかった。日記とか書かされても「今日はなにもありませんでしたまる」とか平気で書くようなそんな子どもだった。仮に何かテーマを与えられても、それについてどう書けばいいのかさっぱり判らず、原稿用紙のマスを埋めるのがひどく苦痛だった。そういえば、夏休みの課題で読書感想文か感想画のどちらかを選択することになっていたのだが、一度足りとも前者を選んだことはなかったな。きっと、最初の文節をどう書きだしていいのかが判らず、そこで止っていたのだと思う。一方、どうでもいい物語を考えたり、くだらないことを想像したり、それをひとに話したりすることは大好きだった。そう、考えたことを紙に書くってことができなかったのだ。これはもうばかなのかもしれんね…マジでそう思っていた。そしてそれは、大人になってからもしばらくは変わらなかった。
それが変わったのは、ワープロを手にするようになってからだった。消しゴムを使って書き直したりしなくてもカット・アンド・ペーストで文章の編集ができるその環境が文章を書くことそのものを大きく変えた。なんでもいいからとにかく書き連ねて、その中から取捨選択して、組み替えて…そういったプロセスの中で自分の考えがまとまってきて、また思ってもいなかったようなことに気づいたりして、そうするうちに、いつしか書きたいテーマが自然と浮かんできて、それについて頭からお尻まで一気に書けるようになっていった。

当時使っていたのは東芝のRupo JW-90シリーズで、まだカラー表示すらできない頃の機種だったが、これがなかなか使い勝手がよかった。今でいうカット・アンド・ペーストに長けていて、漢字変換の効率の高さを謳う他社品に触る度にそれが容易ではないものがあることを知って、つくづくRupoでよかったと思ったものだった。これってワープロ(Word processor)じゃなくてセンプロ(Sentence processor)だよねって思っていた。
つまり、それまでの自分は、書きたいことがなかった訳ではなくて、どう書くのかを知らなかっただけだったんだな。学校教育の問題として文章の書き方を教えることがおざなりだとはよくいわれることだが、文章の書き方なんて人それぞれ違うから、結局、習うんじゃなくて自分で見つけていくしかなんだと思う。とにかく、自分の場合、ワープロと出会ったことで文章を書く喜びを知った。考えてみたら、最初にワープロに触ったのが仕事で、キーボードに向かったその日に30分もののシナリオを一本一晩で書き上げていたんだった。仕事で使うのはもちろん、自分の楽しみとして小説を書いて数少ないひとに読んでもらったりすることも楽しかった。
そのうちにインターネットに触れるようになって、BBSへ書き込んだり、今でいうブログのようなことを始めて毎日欠かさず更新したり、メールで遠く離れたひとと様々なことを語らって、それそのものが楽しかったし、それらを通して文章を書く魅力を更に知ることになった。
もちろん、文章を書くには文章を知らなけりゃならない。それを身につけるためには、人が書いた文章を読むしかない。かつては、常に鞄の中に数冊の本を入れて持ち歩き、例え手ぶらで出かけても電車に乗る前に駅の書店で文庫本や雑誌を買い求めて、それができなければ網棚に残された夕刊紙にすら手を伸ばすほどの本の虫・活字の虫だった。今でこそ読むことにはインターネットの中である程度満たされているから、本を読む機会はぐんと減った…実は老眼で文庫本サイズの文字を読むのが辛いwww…のだが、読みまくった経験が文章について多くを学ばせてくれた。そして、世の中には様々なドラマがあって、それがひとを突き動かすことを知った。
今こうやって書いている文章を自分自身けっして上手いものだとは思わないが、ある程度ひとに読んでもらえるものになっているといいなと思う。なにを言いたいのかというと、作文が嫌いだった子どもは、いつの間にか書くことが大好きになっていたってことだ。
さて、ブログという日記ではけっしてない外に開いた場所でいったい何を発信していくのか。これについては悩み考えること山の如し…いや動かないんじゃなくて多いって意味で…いろいろ逡巡するわけだ。これで判ったのが、なんだ俺、文章書くの好きになったはずなのに、それが嫌いだった子どもの頃に戻ってね?書きたいことが浮かばなくなってね?ってことだ。いや、きっとそれも違う…まず書き出してみろ!話はそれからだ!ってことなんだと思う。さあ、書いてみるか。

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